昔の関野のお話

 6/24、森部がお借りしている関野フィールドの地主、中村正太郎さんに、昔からのこの土地の自然とのお付き合いについてお話を伺ってきました。
 代々この土地に住んで来られた正太郎さんは、フィールドの国道を挟んだ下の土地にお住まいです。 藤野では珍しい、そして関野地区では唯一、現在も水田を耕作されているお家です。 中村家は水田の少ないこの辺りでは珍しく、雑穀は作らずに穀類は米と麦だけ作っていたそうです。それだけ藤野の中では日当たりや水に恵まれた場所だったのでしょう。 森部で稲を作ろうと苦戦してきた山の田んぼは、代々中村家が棚田として利用してきた場所ですが、そこは30年ほど前に止め、現在続けている水田は御自宅の下の土地です。
 田んぼを止め、関野フィールドにはスギが植えられました。 現在この辺りはスギやヒノキの林に囲まれていますが、60代後半の正太郎さんが子どもの頃、棚田の周囲に木はなく、日当たりがよかったので、稲だけでなく、サツマイモもたくさん栽培していました。 今ではこの地域でも廃れてしまった食べ方ですが、イモを粉にして饅頭にもしていたそうです。
現在のお住まいは、正太郎さんと、そのお父さんの親せきで斜面を平らに屋敷引きをして、建てられたお家。 家の建材は中村家の山から伐り出してきたものです。 伐採した木を搬出する時には、佐野川という藤野北部の地域から借りてきた馬を使ったそうです。 伐り出してきた梁丸太・床柱を磨くのには、ワラ縄を濡らし、それに糠をつけてこすっていました。 家の材料、それを搬出する動力、加工する道具、全て自分たち自身や地域内で自給できるものを使っていたんですね。煮炊きにも風呂の燃料にも、薪や炭を使っていました。正太郎さんのお家は、今でも風呂の燃料に薪を使っておられます。
 更に、薪や炭はかつて貴重な現金収入源でもありました。 今でも炭焼きの痕はありますが、正太郎さんの子どもの頃には、既に炭焼きはしていなかったとのこと。 その他の現金収入減としては漆や絹織物などがありました。 甲斐絹と呼ばれる山梨の伝統的な織物を織っていたそうで、奥様のすずえさんから、中村家で譲り受けたという絹織物を見せて頂きました。
20170624kaiki.jpg

しかし、中山間地で農地に適した平地が少ない上、中央線で東京に通勤可能という条件もあり、この部落の多くの住民は早くからサラリーマンとして都会に通っていたようです。 関野地区でも専業農家は葉タバコを作っていた一人だけで、それも40年前に止めてしまったそうです。 正太郎さんも勤め人として都会に出勤はしていましたが、土日は山仕事や畑仕事をしてきました。 その中で、生活に必要なものを山から調達する術を身に付けて来られたようです。
20170624shoiko.jpg
20170624bakuso.jpg

 写真は、木を組み合わせて作った背負子や、馬糞ッカゴと呼ばれるモウソウチクで編んだ大きな籠などの日用品。 スギの枝打ちをする時には、山の中で細い木を伐って組み合わせ、梯子を作って木に登っていたそうです。 この梯子は残念ながら、現在は残っていません。どれも作るのには相当器用さが要求されそうですが、昔は誰でも作れる日用品でした。 現在も、風呂の燃料やシイタケのほだ木として山の木を活用したり、お家の周囲の柿や梅で干し柿や梅干を作ったり、山の恵は生活の一部であり続けています。 関野フィールドにも、実のなる位置が高くなり過ぎて収穫できないほどの大木になった百目柿が残っています。
 森部でも、昔からの知恵や技術を活かして森の整備につなげていければよいなと思っています。
スポンサーサイト

Comment

非公開コメント